養殖ハマチ発祥の地香川県から今も昔もいいハマチ
ハマチ養殖のはじまり

昭和のはじめ、"獲る漁業"から"自ら育てる漁業"を目指してハマチ養殖に生涯をかけた人がいました。
野網和三郎 その人です
明治41年3月11日、香川県大川郡引田町の網元の三男として生まれ、志摩と隠岐の水産学校を卒業した彼は、生家近くの安戸池(あどいけ)で「牧場で牛を育てるように、ここで魚を育てられないか」と考え、ハマチの養殖を試みました。
幾たびかの失敗を繰り返しながらも「魚にも人間と同じ愛情が大切である」と言う信念のもと昭和3年にハマチ養殖の事業化に成功し、65歳の生涯を閉じるまでハマチ養殖に尽くしたのでした。

彼がいなければ、現在のハマチ養殖はないといっても過言ではないでしょう。

まさに、「ハマチ養殖の父」
ハマチ養殖の変遷
昭和初期から昭和48年頃までの香川県のハマチ養殖は5月頃にモジャコ(5cm程度)を搬入し、年末に1Kg程度で関西方面に出荷していました(当年魚の養殖)
しかし、昭和48年頃から販売先が関東方面へ拡大したに伴い、5月頃に県外から1Kg程度の種苗を県内養殖場に搬入し、 年末頃に3〜4kg程度に成長したハマチを出荷するようになってきました。(2年魚の養殖)
その後、昭和58年頃には2年魚ハマチの養殖にほぼ全面的に切り替わりました。
カンパチ養殖の変遷
平成元年頃から養殖方法がハマチによく似ており、消費者のニーズの高いカンパチに転換する業者が現れ、平成13年現在で県内のハマチ・カンパチなどのブリ類養殖尾数の約3割をカンパチが占めています。
なお、カンパチは、ハマチより低水温に弱いので香川県内では12月中旬頃までしか養殖できません。
養殖施設の変遷

築堤式養殖

天然の入り江を築堤や金網で仕切った養殖場養殖。
日本で初めてのハマチ養殖をおこなった安戸池はこのタイプ。

支柱式金網仕切型養殖

鋼管杭と金網で水面を仕切った養殖場での養殖。
昭和34年頃より県下20ヶ所程度で実施されるが、多額の施設費が必要。
小割式養殖の普及により衰退し、昭和54年頃を最後に姿を消す。

小割網式養殖

海面に小割生簀を設置し、その網の中で魚を入れての養殖。
鋼管製の枠をフロートで浮かし、それに小割網を吊り下げる筏式やフロートだけで小割網を吊り下げるフロート式がある。枠の大きさや深さは、魚種や漁場により差がある。
昭和30年代後半に成功し、施設費が少なく簡便な方法であるため40年代に普及し、現在にいたる。
ハマチ養殖の変遷
昭和3年
引田・安戸池で野網和三郎氏によってハマチ養殖の事業化に成功
9年
直島・喜平島で築堤式による養殖が開始される
15年頃〜20年頃
戦争による物資不足・餌料魚の入手難からハマチ養殖は中断される
26年
引田町・安戸池で引田漁協の自営による養殖が再開される
34年〜35年
志度町・真珠島、内海町・田ノ浦で支柱式網仕切型による養殖が始まる
(後に県下で20ヶ所程度設置されるが、昭和54年頃までに衰退)
35年
牟礼町(牟礼漁協)、大内町(東讃漁協)で小割網式による養殖が始まる
39年
養殖業者が集まって「香川県海水魚類養殖漁業協同組合」が設立され、香川県の魚類養殖業の振興や問題の解決に現在まで努力する。
45年
小割網式養殖が県下で広く行われる。(現在まで行われる)
47年〜
瀬戸内海沿岸の工業地帯や都市からの排水により水質の富栄養化が進み、夏の高水温期に赤潮の発生が見られるようになり、養殖ハマチが被害を受けた。
(以降幾度か被害に遭った。)

47年

香川県漁連により関西方面へ活魚運搬船を利用した出荷が開始される
48年
関東地区での需要の拡大や消費者志向の変化に対応するため、2年魚ハマチ養殖が始まる
瀬戸内海環境保全臨時措置法が施行され、水質防止ための取り組みが行われ、徐々に水質改善の傾向が認められている
58〜59年
引田町地先において、過去の赤潮の調査結果から、網の深さ20mを超える大型小割網が試験される
(現在はすべて大型小割網で養殖を行っている)
58年
2年魚ハマチ養殖に全面的に切り替わる
62年
庵治町で、ハマチの投餌効率の向上と漁場環境の保全のため、魚の食べ残しを減らすために魚と配合飼料等を混ぜて粒状の練り餌にしたモイストペレットの実用化試験が行われる
(平成6年頃までにモイストペレットの普及が進む)
11年
香川県海水魚類養殖漁業協同組合に、養殖魚の品質の向上と健康な魚づくりをめざすために魚類養殖生産物品質向上検討会を設置し、消費者ニーズに対応した養殖魚を生産するよう「養殖マニュアル」等を定めて指導している

     


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